日  記

某ケンノートを再び

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午前中は矩計図の続きをし午後から平詳と矩計図をもとに3Dに起こしながらチェック。

なんとなくまとまりつつはある。

外構に対するアイデアが浮かんだけれども、今回は外構は別途なのと諸々考えて引っ込める。

子育て支援関係の認定が降りる。子育てというよりも子供が育つベースとしての環境に対する関心は大きいと思う。だけど説教っぽくなりがちなのでアナウンスが難しい。とりあえずは簡単な告知に留めた。営業的な意味合いで考えると適当な割引きだと思うけれども、逆に簡単に割引ができるととられる危険性もある。もともとサービスのみに対する対価なので値段があってないようなもの。専門性や労力を考えると決して高い値段設定ではないけれども、労力を削ろうと思えばかなり削ってもカタチとしてだけなら成立してしまうので値段設定が難しい。あまり自分を安売りして提供できる価値も提供できなくなっては仕方がない。と現時点では考えている。

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昨日のつづき。と思ったけれども、感覚的な部分は昨日書いた通り。

それをどう簡単な言葉に置き換えるかだけれども、まだ、できる感じがしないのでそれは先送りにする。かな。

ようは、「正しさのようなもの」だけでは息苦しい、ということ。そういう息苦しさは社会の至る所で見られるけれども、そういう息苦しさでうめつくされた環境はどこかで人を追い込むかもしれない。少なくとも子供が育つ環境としてはもっと自由なものを残してあげたい。そういうところから建築を始めたのだけど、それは今もあまり変わっていない。(もう少し力が抜けたような気がするけど)

その自由ってなんだろうか。

いろいろとイメージするけれども、建築と人とが関係性を結べる、コミュニケーションを取りうる隙間がある、という自由が今は一番しっくり来る。

例えば徹底されたモダニズムの美しさがあるとする。そこに漂う緊張感は息苦しいもの、ととれそうな気もするけれども、抽象を追求した美しさは人の感情に変化を与え、そこに関係性が生まれる。

また、昔の風景が残る街並み。そこには人の営みや歴史が幾重にも織り込まれて、同様にそれを見る人の感情に変化を与え、 関係性を生み出す。

「間取りのパズル」によってのみできたものを想像するとどうだろう。それが他と区別がつかないくらいきちんと作られたものであればなおさら、そこに関係性を結ぶ余地は残らない気がする。機能的で便利。クレームの心配もないけれども、想像の自由もない。

暴論を言ってしまえば、多少不便でムラがあって、完璧じゃなくったって、そこに自由があればそれでいい。臨終の際の心電図のようにフラットに均された記憶を積み重ねるよりも、鼓動を感じる今があり続けるほうがいい。

「動線の長さ」「広さ」「高さ」「収納の多さ」そのたたくさんが絶対的な指標のように信じられたりするけれども、それらは決して絶対的な価値ではない。重要なのはそれらの構成によって生まれる関係性のための襞と余地。

それを僕らは「空間」と言ったりするけれども、それを事前に伝えるのは本当に難しい。

 

そんなことどうでもいいじゃねーか。はっきり言えば伝わる人には伝わるかもしれないけれども、仕事めったに来なくなるだろうな。逆に増えないかなー・・・

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自由って言葉、まだ扱いきれてないな。