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twitterやfacebookや職場のブログは似つかわしくないということでこちらの日記を再開してみる。
「今日は日本における平和という言葉が正義と同程度に信用出来ない言葉になった日だな。ヘイワ記念日。」とtwitter等に書いた。
平和安全法制(平和安全法制整備法、国際平和支援法)、平和のためだそうだけど、先の大戦を通じて人類が平和のために手にした小さな種を手放すことにならないか。
なんにせよ戦争の可能性やそれを引き起こそうとする力はいつ、どこにでもある。小さな種と引き替えにした抑止力もその力の一つだと思う。
力は力を呼んでやがて大きなうねりとなる。そのうねりとは反対の方向を向いた小さな種を手放して良いものだろうか。
戦争が平和と同義になり、正義と同義になるのであれば、行き着く先は目に見えているではないか。
こちらが力を持つ。それに対して相手が力を持つ。それに対して不安が煽られる。あちらでも不安が煽られる。そのうねりをどうして止められようか。
震災後の原発事故で分かったことは、空気は簡単につくられる。そして、冷静に考えればそんなおかしなことは、ということがおかしなことではなくなる。
あれだけの事故があり解決もしていなければ責任もとっていない。構造も変わらないどころか、より巧妙な構造になっているにもかかわらずたかが原発すら止められない。
その人々がいざ臨戦態勢となって生命に関わる不安をもとに空気がつくられたとしたらどうなるだろうか。多くの人は戦争なんて起こらないと思っているだろう。逆に平和ボケだと抑止力を叫ぶ人もいるだろう。
しかし、それこそ平和ボケだとしか思えない。力による抑止力を心配する前に、自らの抑止力を心配したらどうだろうか。
個人として歯止めを聞かせるための姿勢と、集団としての空気の扱いの術のようなものを発明しないといけないと強く思う。残念ながら今のデモだけでは届くべきところに届かないどころか利用可能な空気として扱われかねない。(空気を分断させようと思えば簡単。デモに対向するのではなくて、デモ側に入って奇抜な行動やいくつものグラデーションでデマを撒き散らせばいいんだから。そしてそのノウハウと確信は確実に積み重ねられてると思う。空気なんてちょろいと。デモのうねりが一線を超えればあるいは、と期待もしたくなるけれど・・・)
書きたいことはいくらでもある。