日  記

某ケンノートを再び

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やばい。飽きてきた。

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昨日は妻が用事があるということでほぼ一日子どもと遊ぶ。

夜はつかれて起きれず。ので朝早起き

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今日は早朝から午前中一杯は仕事。現調した結果を元に図面を起こし、3Dで再現する。

それにどう手を加えていくか簡単にスタディするもなかなか難しい。

午後からは子供たちと遊ぶ。夜ツイッターを覗くとこちらからはよく知っている建築関係者が浜松からマルヤの視察?に来ていてIっちーと飲んでいるということでフットサル前に少しおじゃましてきた。ひとつひとつまちのなかに積み上げていくようなスタイルで気になってた人なので直接話せて良かった。継続と積み上げがなかなか出来てない。

フットサルは若干控えめにプレイ。膝はそれほど痛くならなかったので良かったが思いっきりプレイできる日は来るのだろうか。

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明日は何とかして突破口を見つけないといけない大切な日なので今日のところは寝るべ。

しっかりテーマを抑えて書かないと続かないなこりゃ。でも、もうちょっと粘ってみる。

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昨日もミッドナイト最終便で帰ってから打合せの準備なんかしてた関係でブログサボってしまった。今日も激ネムだけど書くだけかこう。

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昨日は夕方まで事務所の模様替え。テーブル上の棚と、カタログ用の大きめの本棚を製作。 まだ完全には片付いていないけれどもなんとか完成までこぎつける。

夜はK氏招集の会へ。東京時代から考えてたカードで遊ぶ第0会。可能性が拡がるツールだと思った。汎用性が高いだけに展開の仕方は気を使いそう。Nやんを誘ってみてもよかったなと思ったけど忙しそうだからなー。

帰ってからメールが届いてたので資料出しと打合せのイメージシミュレーション。ブログ書く時間作れず。

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今日は現場で店舗の相談の初顔合わせと実測。コスト的にはけっこう厳しいものになりそうだけど、クライアントに明確な方向性があるので考えがいがありそう。がんばろう。

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鳥刺しの話にしても、消費税の話にしても、再稼働の話にしても、 文脈 もクソもねーな。というものが多い気がする。これまでもそうだったけれどもただ強引さが浮き彫りにされるようになっただけなのかどうか。

どうとでもなるような単純な理由が 文脈にすり替えられる。読む余裕がないからなんだろうなー。もっと気楽に読むことを楽しめるような空気になればいいのに。もしかして日本人が文脈を大事にするってのは反対で、文脈なんて読むものじゃなくて共有出来ればいいだけの思考停止の道具になってるんじゃなかろうか。

 

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月曜日は原因不明の体調不良で午後からダウン。火曜日は夕方までプランその他雑務をして、夜はOさんと夕食。その後子供を寝かしてたら寝落ち。

毎日続けるつもりが2日間サボってしまった。

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今日は予定が空いたのと天気が続きそうなのとで急遽事務所の模様替えをすることに。

プランは立ててたので午前中にキタヤマに買いだし、午後から中の物をあっちにやったりこっちにやったり。この狭い部屋のどこにあったんだろうってくらい山積みになってるもののほとんどは本やカタログ、その他資料などの紙モノが大半。半分くらいは処分してしまいたい衝動にかられる。iPadでも買って雑誌系・カタログ系は電子書籍に移行したほうが後々いいのではという気がしてきた。

今日はなんとかノルマと思ってたところまでは行けた。明日大型の棚を2つ作ればこれらがある程度納まる予定だけどうまくいくだろうか。

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Oさんと夕食。ボスがここで書いてたようなことをかなりの精度でそのまま理解されてたのには驚いた。

今後の方向がどうなるか分からないけれども、可能であれば気持ちに応えたい。

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「自分の思っているイメージを、(自分の思っているイメージを超えて)実現してもらいたい」というタイプと、「自分がイメージしていなかったようなものを実現 してもらいたい」というタイプが混合している場合はどうか。コントラストの差こそあれ、温度差があることはかなり多いと思う。

どちらかに合わせるという方法もあるが、どっちにも合わせるということは可能か。

それぞれの視点から見た時にどちらの要望も満たされている状態。というのはイメージ可能だけど、その状態を導くプロセスはなかなか難しいように思われる。

その場合も「出来るだけフラットな目線・態度を維持する」という姿勢が有効なように思われる。前者のタイプの要望を一つの予条件として踏まえた上で、それをクリアしつつ後者の要件を満たす一点を見つけていく。そのためにはよりフラットな視点から考えることが必要だろう。

計画側からみると、前者の要件は多くの場合ネガティブというかブレーキをかける要素になりがちだけど、それをポジティブに、アクセルを踏む要素に反転するようなものが考えつくかどうか。その要素を育てるために前者を巻き込むようなプロセスを設計出来るかどうか。

条件によっては「自分の持ってるイメージ」を100%満たしつつ「自分がイメージしていなかったようなものを実現」することは物理的・コスト的に不可能かもしれない。そのような場合に「自分の持ってるイメージ」のいくらかでも「自分がイメージしていなかったようなもの」に無理なくスライドして、結果的に「自分の持ってるイメージ」を超えた満足度を達成しなければならない。
結構超線形的な後戻りせずに様々な要件をクリアしていくような戦略が 有効なのかもしれない。

あとは「無駄」じゃない無駄をどうつくりだすかだよなー・・・。

 

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今日は昼間は家族サービスと前に竣工した住宅のアフターフォロー。夕方からはサッカー観戦とフットサル。

朝から喉が痛くて灰をたくさん吸ったからくらいに思ってたけど、フットサルから帰ると体調があんまりよろしくない。

ということで今日は手抜きで。

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日記書くのをすっかり忘れてた。

午後からクライアントとの打合せ。プランの方向性が少し見えてきた。できれば年内竣工が希望なので急がないといけないけれど、宅地造成なんかが必要でけっこうその辺の調整が必要。今回は諸事情から宅地その他に関しては別でお願いしてもらうことにしてて、外構抜きの建築だけを設計することになってるので僕の守備範囲じゃないのだけれども。

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息子が市立図書館で借りてきて本が「肉食獣」とか「肉食の鳥」とか肉食系アピールかって感じのチョイスで面白い。男の子ならではの強さへの憧れみたいなのが「肉食」という言葉への興味になってる感じ。この「肉食獣」っていうのは生々しい写真が豊富で、まさに肉食ってところをえぐりだしてる感じがとてもナイス。子供向きの図鑑って感じの装丁のくせに全然子供に媚びてないところが良い。

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今している仕事は限定的な範囲での仕事ということもあって、まさに「間取り」を解いてそれに意匠を貼り付ける、といった方向なんだけど、特別望んでいない人にはそれで十分なんだろうな。と思うし、そういう人が大部分なんだろうな、と思わされる。

後は与えられた役割の中で満足度をあげられるように精一杯努力するだけ。それは悪いことではないけれども、その上でクオリティをあげていくには伊礼さんの言われるような標準化によって精度を挙げていくことと適切なマッチング(作風がある中でその作風を予め理解している人がクライアント候補になる)を引き寄せることが必要なんだろう。それはまさに伊礼さんを手本としているベガさんのような工務店にこそ向いているように思う。

その方向とここ数日書いてきたようなことは両立しうるのだろうか。おそらく両立しうるのだろう。だけどそれに対してどういうスタンスでいるのか、というのは結構重要だと思う。

強引に分けてしまうと「自分の思っているイメージを、(自分の思っているイメージを超えて)実現してもらいたい」というタイプと、「自分がイメージしていなかったようなものを実現 してもらいたい」というタイプがいるように思うし、そのどちらに対して応えられるようにするか、というのでスタンスが変わってくるように思う。

要望に対して一定のクオリティ以上のものを提供できるようにするためには前者であれば「標準化」のようなフィルターが必要だろうし、後者であれば、可能な限りフラットな目線・態度を維持することが必要だろう。(といっても、それらは一定のレベル以上では混ざり合うのだろうけど)

つづく。

 

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午前中は矩計図の続きをし午後から平詳と矩計図をもとに3Dに起こしながらチェック。

なんとなくまとまりつつはある。

外構に対するアイデアが浮かんだけれども、今回は外構は別途なのと諸々考えて引っ込める。

子育て支援関係の認定が降りる。子育てというよりも子供が育つベースとしての環境に対する関心は大きいと思う。だけど説教っぽくなりがちなのでアナウンスが難しい。とりあえずは簡単な告知に留めた。営業的な意味合いで考えると適当な割引きだと思うけれども、逆に簡単に割引ができるととられる危険性もある。もともとサービスのみに対する対価なので値段があってないようなもの。専門性や労力を考えると決して高い値段設定ではないけれども、労力を削ろうと思えばかなり削ってもカタチとしてだけなら成立してしまうので値段設定が難しい。あまり自分を安売りして提供できる価値も提供できなくなっては仕方がない。と現時点では考えている。

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昨日のつづき。と思ったけれども、感覚的な部分は昨日書いた通り。

それをどう簡単な言葉に置き換えるかだけれども、まだ、できる感じがしないのでそれは先送りにする。かな。

ようは、「正しさのようなもの」だけでは息苦しい、ということ。そういう息苦しさは社会の至る所で見られるけれども、そういう息苦しさでうめつくされた環境はどこかで人を追い込むかもしれない。少なくとも子供が育つ環境としてはもっと自由なものを残してあげたい。そういうところから建築を始めたのだけど、それは今もあまり変わっていない。(もう少し力が抜けたような気がするけど)

その自由ってなんだろうか。

いろいろとイメージするけれども、建築と人とが関係性を結べる、コミュニケーションを取りうる隙間がある、という自由が今は一番しっくり来る。

例えば徹底されたモダニズムの美しさがあるとする。そこに漂う緊張感は息苦しいもの、ととれそうな気もするけれども、抽象を追求した美しさは人の感情に変化を与え、そこに関係性が生まれる。

また、昔の風景が残る街並み。そこには人の営みや歴史が幾重にも織り込まれて、同様にそれを見る人の感情に変化を与え、 関係性を生み出す。

「間取りのパズル」によってのみできたものを想像するとどうだろう。それが他と区別がつかないくらいきちんと作られたものであればなおさら、そこに関係性を結ぶ余地は残らない気がする。機能的で便利。クレームの心配もないけれども、想像の自由もない。

暴論を言ってしまえば、多少不便でムラがあって、完璧じゃなくったって、そこに自由があればそれでいい。臨終の際の心電図のようにフラットに均された記憶を積み重ねるよりも、鼓動を感じる今があり続けるほうがいい。

「動線の長さ」「広さ」「高さ」「収納の多さ」そのたたくさんが絶対的な指標のように信じられたりするけれども、それらは決して絶対的な価値ではない。重要なのはそれらの構成によって生まれる関係性のための襞と余地。

それを僕らは「空間」と言ったりするけれども、それを事前に伝えるのは本当に難しい。

 

そんなことどうでもいいじゃねーか。はっきり言えば伝わる人には伝わるかもしれないけれども、仕事めったに来なくなるだろうな。逆に増えないかなー・・・

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自由って言葉、まだ扱いきれてないな。

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午前中は矩計図を書き始めて、午後は携帯の契約変更に。

使っていた携帯がかなりいかれてきたのでこの機会にスマフォ化。docomo版iPhoneは出なさそうだし、乗り換えるのも面倒なのでよくわからないままXiのGALAXYSⅡLTEに。
いろいろ遊ぶ時期のピークを外したのでそれほどワクワク感はないけど、SNSやメールのチェック、地図関係は便利そう。 ぼちぼち使っていこう。

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昨日書きかけた、間取り作成フリーソフトの功罪、というか、建築を「間取り」から考えることへの危機感について。

一般的に言われる「間取り」によるパズルは計画を誰でも行えるように簡略化されたそれこそフリーソフトのような存在になってしまっているように思う。また、例えばプロとして住宅を計画している人の多くもこの「間取りのパズル」を解くことが計画の主幹をなし、例えば外観はそれに対して添え物のように後付で考えられることが多い。

外観を間取りとの関係性でバランスを見ながら並行して計画しているとしても「間取りのパズル」を解くことが主軸になっていることには変わりない。

これのどこがいけないのか、またどうすれば避けられるのかはまだ言語化出来ていないのでこれから考えていきたいところなのだけど、ごく個人的な感覚で行くと「間取りのパズル」を解くだけではうまくいかない、というのは確かに感じている。

何がどううまくいっていないのか、うまくいったものとうまくいっていないものの違いは何なのか、そこから言語化する必要があるように思うけれども、まずそ感覚的なところを言葉にしてみると、なんというか、空間とそこでの生活が死んでしまっているように感じる。

もちろん「間取りのパズル」をうまく説いててなおかつ活きた空間というのもあるけれども、活きた空間が必ずしも「間取りのパズル」を解いたものではないと感じることも多いし、「間取りのパズル」が空間を殺していると思うことはよくある。逆に「間取りのパズル」を解かないことが空間を生かしていることもある。

ただ、「間取りのパズル」を解くことは素人でもできて理解しやすいし、一般向けの住宅雑誌はせっせとパズルを解くコツを教えこんだりしてるもんだから、施主はそういうものに流されやすい。それは何日か前に書いた「正しさ」のようなものとして空間を殺すのかもしれないし、空間を活かす要素はおそらくその時に書いた「自由」のようなものだという予感があるので、可能的様態や今まで考えてきたことを絡めて言語化できれば、そして出来る事なら施主に伝えられるような簡単な言葉にまでできればいいなと思っている。そこまでやっても多分共感できる人はできる、できない人はできない、と言うことになるんだろうけど、共感できるはずの人が気づかないまま「正しさ」だけで家を建ててしまうのはもったいない気がする。また、不自由な正しさで規正してしまうような空間をつくるのは仕事としても結構辛い。

と、まだ自分でもよくわかってないんだけど、無理矢理にまとめてしまいそうなので、しばらくはだらだらと考えてみようと思う。