日  記

某ケンノートを再び

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昨日の木製建具の対応策を施工会社へメール。
これだけ桜島が活発になってくると、鹿児島では灰に対する想像力も外せない。大きくオープンできる建具したのだけど、灰の降る日は少しだけあけて通風が取れるようにしたい、とのこと。確かにそうだ。しかし中途半端に開けると、框とガラスの隙間からどうしても虫が入る。いろいろ考えたけれども、そこに縦桟を追加して隙間を埋めるしかなさそう。この縦桟はきちんとデザインに取り入れられそうな気がするし、こういう所からの発想はデザインの密度をあげるので歓迎。 

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昨日のUST。「地域社会圏主義」については書きたくなる時を待つとして、若者が社会貢献をしたいと口に出しちゃうことについての話題がけっこう伸びてた。

 僕も前は「自分のことを考えるより他人のことを考えたほうが単純に楽」と思ってたこともあり若者が社会貢献を口にだすのは、まーそんな時期もあるよね、ってくらいで特別に悲観的でもない。

だけど、今はちょっと違うふうに感じてて、もしそういうことを口に出す若者と話をしたらなんて答えるだろうか、という感じで試しに考えてみる。

途中「社会貢献と自分探しはちょっと似てる。(追い求める)対象を無理やり切りわけてる感じが」みたいなコメントしたんだけど、T犯さんがちょこちょこ口に出してたみたいに自他のイメージの持ち方にヒントがありそう。

昔、自分探しが流行ったのが今は他人探しに変わっただけな気がするけれども、(それこそ「自分のことを考えるより他人のことを考えたほうが単純に楽」)自他を切り分けてそこを追い求める対象にしたがるという点で似てる。

自分探しについては、自分なんてものはどこかにあるものを探すんじゃなくて、自分でつくる(デザインする)くらいのほうがポストモダンを生きる作法としては合ってる、というように思うけれども、これを他人探しに当てはめるとどうなるだろうか。

他人探しって、結局他人を通じて自分探しをしてるようなものかもしれない。よく分からない気もするけど「(他人を通じての)自分なんてものはどこかにあるものを探すんじゃなくて、(他人を通じて)自分でつくる(他人にデザインさせる)くらいのほうが ポストモダンを生きる作法としては合ってる 」っていう感じか。
前にU氏が言った「可能的様態」みたいなのをイメージすると、概念としての自分や他人はもっとあいまいで遊び代のあるものにしてた方がいいんじゃね、ってことにすると割とすっきりした。

実際の行動において自他の区別が必要な場面もあるだろうし、そこにおいて社会貢献という言葉が力を持つこともあるかも知れない。概念的な自分とか社会って言葉にこだわってそこで悶々とするのではなく、あくまで様態の一つとして社会貢献って言葉も飲み込んじゃえばいいんでね。

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にしても、T犯さんとU氏がしょっちゅうこういう議論をしてる環境ってのは羨ましい。ちょこちょこUSTしてくれないかな。ってか、こういう環境を自分の中に作ろうと思ってこのブログを書き始めたんだなと自己確認。自分の中でのフィードバックの場。 T犯USTみたいな位置づけか。
ってことでたまにフィードバック頂けるとありがたや。